i シネマカルチャーCinemaCulture INTERVIEW






インタビュー INTERVIEW 
『あさがくるまえに』カテル・キレヴェレ監督 オフィシャル・インタビュー

9月16日(土)からヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開            

9月16日(土)からヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開される『あさがくるまえに』。これが長編3作目となるカテル・キレヴァレ監督のオフィシャル・インタビューを紹介する。
本国フランスでベストセラーとなったメイリス・ド・ケランガルの小説が原作。事故で脳死状態となった少年とその臓器をめぐり、少年の家族や臓器移植コーディネーター、臓器が提供されるかもしれない人たちの心の機微が24時間の中で描かれる。リアルな手術シーンも話題だ。

 
Photo : Shigeo Gomi | Hair : 橋本申二 atelier ism © / ReallyLikeFilms

——メイリス・ド・ケランガルの小説を映画化しようと思ったきっかけは何でしょうか?

 本作のプロデューサー、ダヴィド・ティオンが原作の『Réparer les vivants (Heal the Living)』をとても気に入り、出版から2、3日後にくれました。きっと私も気に入るだろうと。
 私自身すでに彼女の小説は『Corniche Kennedy』と『Naissance d’un pont (Birth of a Bridge)』の2冊を読んでいましたので、5時間ほどでむさぼるように読みました。そしてそのあいだ中ずっと映画化してみたいと感じ、その強い欲求を確信しました。そして脚本を書きながらなぜ映画化したいのかがより深く理解できました。私にはもともと自分が病院で経験したことを何かに変えたいという欲望があったのです。

 結果的に脚本は私の前作と同様にパーソナルなものとなりました。またこの小説はとても力強い映画的な冒険を約束してくれました。臓器の旅は解剖学的かつ詩的で、さらに形而上学的な方法で身体を撮影することを可能にしたのです。生きている生物の内部をどのようにして撮影するのか?このような場所を探索するためにはどのようなルールを破ることになるのか?この些細だけれど神聖なものが混然とした映画的な挑戦は、私の1作目の長編作品『聖少女アンナ』(10)を思い出させました。またスティーヴン・ソダーバーグ監督が手術の黎明期を描いたテレビシリーズ「The Nick/ザ・ニック」(2014‐15)を最近見て強く興味をひかれ、映画の中で手術を描くことはとても興味をそそられることとと思ったのです。

——原作者と会われたそうですね。

 原作の権利取得には時間がかかりました。かなり多くの人がこの原作に心奪われていたのですが、最終的にケランガルはジル・トーランと私に託してくれました。彼女は私たちと一緒に書くつもりはないと最初から言っていましたが、意見をする権利は留保していたので執筆中の主要な段階ごとに話し合いました。私には、原作の小説を尊重することが何より重要でした。ドキュメンタリー的な要素と、叙情的で情感に溢れた感性が混在するエッセンスに忠実でありたかったのです。また物語のヒューマニスティックな熱意に共感するという使命も帯びていたと思います。

——本国フランスでベストセラーを記録した原作を映画化することに萎縮するようなことはありませんでしたか?

 メイリスがイエスと言ってくれたときはプレッシャーを感じました。私は世界でいちばんの幸せ者だし、同時に自分の双肩にとてつもない重みを感じました。
 幸運なことに、ジルと作業を開始するとその感情は消えていきました。私はなんとしてもこの物語を語らなければならない。この必要性が私の気持ちを落ち着かせ、必要以上に怖がることがなくなったのです。私の中に向こう見ずな部分があることも感じました。でもそれはいい面としてです。そうでなければ前には進めませんから。また自分ととても近い人たちとの映画づくりも助けとなりました。彼らと会えば家族のように感じる、そんな人たちと完全に自由に創作活動をすることができました。

——前作『スザンヌ』(2014年にフランス映画祭で上映)はほんの数人の人物に焦点を当て、20年にわたる出来事を描いています。一方、『あさがくるまえに』は複数の登場人物の24時間の出来事を追っています。

 本作を映画化したもう一つの理由がそこにあります。新しい物語と時間的な表現に挑戦したいと思ったのです。映画製作や表現形態で譲歩をせずに、より幅広い客層に受け入れられるものにしたかったのです。
 脚本を執筆しているあいだ、私は「武勲詩(フランス文学黎明期の叙事詩)」を構築するというアイディアに取り憑かれていました。武勲詩はメイリスが自身の著作物に関して使用していた言葉です。年代順の記録でもなく、アンサンブル映画でもない。メイン・キャラクターのいないリレーのような映画をつくりたかったのです。
 脚本執筆や編集の鍵となったのは、だれもが自分の人生にとっての存在場所を見つけるための正しいバランスを整えることでした。映画が与えることができる意味を通して、私たちは観客が理屈抜きに感情移入できるような経験を呼び起こさなければならなかったのです。
 キャラクターはそれぞれ強い個性を持っていますが、生と死のあいだを輪のようにつないでいるだけの存在でもあります。本作の核にあるのは、この個々人のあいだのつながりと、寿命を延ばし、死を変換させるためにこの輪をどのようにオーガナイズするかという問いなのです。

——映画は常に流動的に出来事を追いかけますが、一刻を争うという描かれ方はしていません。むしろ感情的なレベルでの切迫感を感じました。

 思わぬ落とし穴は、物語で死を探求することにあったと思います。だれが死ぬのか?両親は息子がドナーになることに同意するだろうか?だれに心臓が移植されることになるのか?移植を受けた患者は生きることができるのか? 
 実際に起こる出来事はまったく違うレベルで発生していきますが、本作では物語をより深く、感情的な一時性の中で語ることが重要だったのです。では24時間の間に起こる出来事を「時間」に追い立てられることなく語るにはどうしたらいいか? 
 原作ではそれぞれのキャラクターの内面を掘り下げる脱線、つまり記憶が描かれています。私は彼らがそれぞれの行動、仕事、いつも使う言葉の中で存在できるよう、すべてを現在という時間の中で描くことにしました。 映画を成功させ、生き生きと描くためには、異質な要素、つまり衝突を描くことだ、とパゾリーニは言いました。私もこの考えを強く信頼しています。物語と美的感覚に関していえば、私は蛇行して、変化していく留まることのない作品、つまり常に必然性を原動力とする作品を撮りたかったのです。
 映画の冒頭は、波に乗る少年たちといった、思春期のエネルギーを描きだす「ティーンエイジ映画」を思わせる刺激的な部分があります。そうした要素が、病院に死が訪れるときに残酷な美しさを加味することになるのです。ところがアンヌ・ドルヴァルが演じるクレールが登場すると、彼女にとって生は正しい場所だとふたたび主張する。本作は、ダグラス・サークの影響に呼応するメロドラマ的な美的感覚に飲み込まれているのです。

——冒頭で若者に死が訪れるにも関わらず、監督はいつも生の側に立っていますね。

 この物語は、人生においてカオス化していくもの、つまり暴力的になる可能性のあるものすべてを抱えもっています。つまり生命がいかにして奪われるのか。それと同時に生の原動力となるものがどのようにして強くなるのか。それは死をどのように変換するのか。そして喪失がもたらすショックから、私たちはいかにして立ち直るのか。人は、死をめぐる道程の中でどのように回復し輝きを取り戻すのかという問いかけは、前作『スザンヌ』でも触れています。スザンヌは母の死による喪失に取り憑かれている女性です。私はこの作品を生きている者の視点から描きたいと思いました。死者ではなく、残された者たちの視点です。

——原作では、臓器移植を受けるキャラクターは映画ほど掘り下げられてはいませんでした。

 本を読む時は好きなところで休むことができますし、読み進めてどんどんイマジネーションを広げることもできます。一方映画は閉じられた空間で味わうもの。闇の中で一定時間ひとつの場所に閉じ込められて映像を見せられる。ですから、映画のストーリーを理解しやすくするためには、もっと重層的で、かつ柔軟性を持たせるべきだと考えたのです。それが、臓器移植を受ける側の視点を採用した理由です。
 だれが心臓を移植されるのか?というもうひとつの疑問はヴェールに包まれています。臓器を受けとるべき人はだれなのか?この問いは古めかしく不合理なものではありますが、当然沸いてくる疑問です。私はメイリスが子どもや思春期の子を選ばず、人生の岐路に差しかかり、この先の人生にどれほど経験するものがあり、またそれを望んでいるかどうかについて考えているような50歳の女性を選んだのは面白いなと思いました。あの年齢の女性が望むものはきっととても美しい問かけになると思ったのです。
 原作では、女性にはふたりの息子がいて、彼女を訪ねてくる元恋人がいる。ジルと私は、新しい心臓を得て新たに生まれ変わり、ふたたび生きたいと願うようなセンチメンタルな背景を彼女に持たせるべきだと考えました。そしてそれがシモンの芽生えたばかりのラブ・ストーリーと呼応するのです。ここには臓器と共に移植されるものがあります。彼女は恋する心臓を移植されるのです。

——本作のフラッシュバックは1回だけ、シモンがガールフレンドと出会う場面だけでした。

 原作にあったケーブルカーのシーンがとても印象に残っていました。シモンとジュリエットが一緒に下校するシーンです。彼女はケーブルカー、彼は自転車で。そして頂上でふたりは出会う。この上昇はふたりの恋の燃え上がる熱情のメタファーであり、愛する人と出会うシモンを描くことで彼という人物を紹介したかったのです。私たちは、この若者に感情移入できるような部分を描くこと、つまり彼の物語に時間を十分に割くことはできませんでした。ですが、このフラッシュバックはタハーム・ラヒム演ずる臓器移植コーディネートの看護師トマの「シモンはどんな青年だったのだろう?」「彼はこの身体でどんな人間関係を築いてきたのか?」という疑問に答えることにもなるのです。
 シモンはとても健康的で、自転車で坂道を駆け上がる彼の心臓のことなんて誰も気にかけたりしないタイプの青年です。このフラッシュバックは、息子シモンの死を知らされたばかりの母親の視点で描いています。この場面は、彼女が夫と息子の臓器提供について話し合う場面の代わりとして機能することになります。そのおかげで観客は、実際にはその話し合いが映されることはなくても、彼ら夫婦はきっと移植に同意するだろうと理解できるようになる。このフラッシュバックは、愛という贈り物、人生という贈り物、そして自分自身という贈り物を与えることへの道筋になるのです。

——撮影場所の病院でも、実際に時間を過ごされたんですよね?

 はい、共同脚本家のジル・トーランと私は病院で長い時間を過ごし、数多くの専門家と会いました。医師役のドミニク・ブランやカリム・ルクルー、そして外科医などの役柄に扮した俳優たち全員と心臓移植手術の見学もできました。撮影監督トム・アラリもそこにいました。私はのちに振り返って正しい全体像を見つけるために、現実を糧にする必要があります。手術室のシーンは、手術の時間軸の配列や動作ができるように特に正確なものになっています。精密さは必要不可欠です。映画のなかで医学的な専門性を表現することは完璧でなければなりませんでした。これらの職業における専門性の端正さと挑戦は、純粋にとても魅力的でした。自分が実際に目にしたものを分かち合うことは、映画をつくる上で重要なことだったのです。

——当初から、心臓移植の場面を撮影するつもりでしたか?

 非常に単刀直入にこの手術場面を描くことは、小説で用いられている大胆なアプローチでした。これはこの企画の肝心なところでもあります。というのは、私は自分の手に文字通り命を握っている人々の力量と技術的な手腕を通じて、キャラクターたちを明確にすることを希望していたからです。手術を示すことで、心臓という複雑な臓器の完全な映像を見てもらえます。私たちのなかの触れることができない無形なもの――感情や個性そして魂――を心臓は包括しています。一方で、実際に触れられ、目に見える筋肉が開かれ、縫い合わされ、誰かの身体に縫合されるのです。あえてそれを直接見て、物理的にも感情的にも、どのように臓器が移植されうるかを見極めることが絶対必要でした。

——この映画は、全編にわたってそこから浮かび上がる、具体的でありながら、なにか目にみえない、蝕知できない信念によって伝えられています。

 そうです。それは私が特にモーリス・ピアラの映画を見て学んだものです。この効果を得るために、それを誇張する洗練された照明のもと、ドキュメンタリー・タッチで非常に正確な仕事と対峙しました。撮影監督のトム・アラリ、セット・デザイナーのダン・ベヴァン、そして私は、カラヴァッジョの絵画や、『戦慄の絆』(88)などの一連のデヴィッド・クローネンバーグ監督の映画にかなりインスピレーションを得ました。ささいなことと神聖なものとの狭間にすべてが集中されました。つまり、臓器移植は配管工事や裁縫のように非常に具体的な作業でありながら、同時にまるで魔法のような何かであるということ。その事実を、人はどのように再確認するのでしょうか?外科医という存在に、何か神的なものがあると信じられずにはいられません。命を奪い、そして、与える……、それは完全に常軌を逸していることなのです。
 無限に小さなものから無限に大きなものまで、さまざまなスケールを通じて、生と死の不思議なサイクルのなかで、この経験の形而上学的な側面を伝えようとしました。動脈を縫合する作業、それは同時に空の上から町を見ること、個人から大衆へ、社会からもっと全世界的に変わっていくことなのです。

——深い昏睡状態にあるシモンに話しかけるトマの姿は、この映画に抽象的で神的なタッチをもたらします。

(C)Les Films Pelleas, Les Films du Belier, Films Distribution / ReallyLikeFilms(場面写真すべて)

 脳死とは、正式かつ法的な技術的解釈によって死を認められた状態です。そしてまた、象徴的かつ感情に訴える死があります。こちらは心臓の動きが止まったときに訪れる死です。それでは、どの瞬間に私たちは死を受け入れるのでしょうか?ふたつの種類の死があるにも関わらず、シモンにさよならを言えるのは、彼の心臓が彼の身体を離れたときだけです。私は見る人にこの矛盾を経験してほしかったのです。
 だれかに別れを告げることには、儀式の必要性があり、つねに儀式的であるべきです。だからこそ、トマがシモンの両親に約束したように、彼に波の音を聞かせるのです。非常にテクニカルな瞬間から夢のようなシークエンスにスイッチします。                 (2017年9月9日 シネマカルチャー記)

                                あさがくるまえに  
                                RIPARER LES VIVANTS

■Staff&Cast
監督:カテル・キレヴェレ 
共同脚色:カテル・キレヴェレ/ジル・トーラン
原作:メイリス・ド・ケランガル
出演:タハール・ラヒム/エマニュエル・セニエ/アンヌ・ドルヴァル/ドミニク・ブラン/クール・シェン/ファネガン・オールドフィールド/ギャビン・ヴェルデ/アリス・タグリオーニ
2016年フランス=ベルギー(104分)  原題:RIPARER LES VIVANTS
配給:リアリーライクフィルム/コピアポア・フィルム
9月16日(土)からヒューマントラストシネマ渋谷ほか 
■カテル・キレヴェレ監督 KATELL QUILLEVERE

1980年コートジボワール生まれ。パリの高校で映画を学び、パリ第8大学では哲学を専攻。2005年に初の短編映画がカンヌ映画祭の監督週間に選出。07年にはセザール賞の短編賞にノミネートされた。10年に『聖少女アンナ』で長編映画デビュー。カンヌ映画祭監督週間にふたたび選出されるとともに、新人監督の登竜門ジャン・ビゴ賞を受賞した。13年に長編第2作『スザンヌ』を発表。本作『あさがくるまえに』が長編3作目で、カンヌ映画祭の国際批評家週間のオープニング作品に選ばれるとともにセザール賞の5部門にノミネート。興行的にも成功した。



  映画ファンのための映画サイト
   シネマカルチャーdigital

Powerd by Contrescarpe(1998-2006 Cinema-joho.com/2017- CinemaCulture)
Copyright(c)Contrescarpe/CinemaCulture.All rights
reserved.
info@cinemaculture.tokyo